透析体験者のストーリー

SMさんの場合
「ささえあい」

慢性腎不全と診断され、透析、腎移植を乗り越えられたSMさんの連載です。現在では普通の生活をされていますが、お世話になった方々へ少しでも力になりたいと、腎友会の役員として活動されています。

「急性腎炎です。」と病名を下されたのは 18 歳の時でした。見知らぬ土地にも、仕事にも、人にも慣れない時です。「元気だけが取柄です。」と元気いっぱいで広島に就職したにもかかわらず、一ヵ月後には病院の白いベッドの上。それからというもの入退院を繰り返し 15 年が経ったある日の事、けたたましい電話の音に受話器を取ると、「あなた、自分の体の事がわかっているのですか?あなたの事を思うから、キツイ事を言っているのですよ!今すぐ入院して下さい!」すごい剣幕で電話をしてこられたのは当時通院していた病院の婦長さんでした。

腎不全で透析をしなければならない、と医師から宣告された時は、絶望の淵。「透析=死」という無知な考えしかなかった当時は、透析を受け入れることができず、悲しくて泣いてばかりいました。他に何か方法があるに違いない・・・、と新興宗教に走ったり、東洋医学に頼ったり、と病気と真っ直ぐに向き合えず逃げてばかりいました。しかし、一向に良くならず、遂に痙攣・嘔吐・イライラ・頭痛 etc・・・。結局泣く泣く透析を決意したのでした。最悪の状態で導入したせいでしょうか、透析導入後も調子が悪く、医師から透析を勧められた時にしておけば、と後悔をしたときは遅かったのです。食欲も体力も無く、 * ヘマトも 17 〜 20 の間位でしたから、やせ細り、つらい透析生活を 4 年弱過ごしていたある夜のことでした。

「あなたに適合する腎臓が出ましたが、移植の手術をされますか?」大学病院からの電話でした。

導入して一年半位で移植の登録をして以来、あれほど待ち焦がれていたはずなのに、喜びと不安で体が震えました。「ちょっと考えさせてください。」

家族で話し合い、もう二度とチャンスはないかもしれないからと好意を受けることになりました。

何時間位経ったのでしょうか、「SMさん、手術が終わりましたよ。目を開けてごらん!手を握ってごらん!」と先生の声です。

二週間は肝心の尿も出なくて、また苦しい透析です。しかも無菌室で、ひとりぼっち。技師さんも看護婦さんもたまにしか来てくださらないし、とても不安でした。先生たちにも笑顔はありません。「絶対尿は出る!早く出てくれんかな〜」先生たちには確信があったのでしょうか。

ある日尿瓶に勢いよく液体が流れ出たときの感動は、経験者でなくては味わえないものではないでしょうか。ナースセンターでは先生と看護婦さんが手に手を取って「よかった!よかった!」って飛び上がって喜ばれたということを聞き、自分の事のように喜んでくださる姿に感動し、頬を伝わる涙を止めることはできませんでした。

退院できるまでの三ヶ月の間には色々ありました。発熱が長く続いたり、白血球の減少がひどく感染症を恐れられるあまりに、先生の回診もないし、看護婦さんですらドアの隙間から手だけ差し出して物を渡されたり、見舞いにきた両親ですら面会謝絶で、インターホンで話すだけとか。拒絶反応も起きましたが大量の「点滴療法」や「放射線療法」をしていただき、乗り切ることができました。

このときほど医療技術のすばらしさに感謝したことはありません。だから、医学解剖に使用する献体が少ないという話を聞き、 [ 献体登録 ] をすることにしました。それは、もっともっと医療技術の向上に努めていただきたいというの思いに他なりません。

移植が成功したら一番の夢は、喉を「ゴックン・ゴックン」と鳴らしてコーラを飲むことでした。何故コーラ? 当時は水分の制限が厳しかったので食事の時はお茶を 100cc 、薬は 20cc の水、口の中はいつも粘っており、スッキリするコーラをゲップが出るくらい飲みたかったからでした。しかし「水分はしっかり取ってくださいよ」と言われても、不思議な事にまったく欲しくなくなっていたのです。

私の場合、免疫抑制剤の副作用でしょうか、「暴飲、暴食は控えて下さい」との注意も聞かず貪欲な食欲に任せて食べていたツケが回ってきました。透析をしていたときは 38 キロだった体重が、 52 キロまで・・・。糖尿病の病名もいただき教育入院をし、治療食と運動で除々に体重も落ち、血糖値も何年か後には正常範囲にまで落とすことができました。透析導入の件にしろ、先生のおっしゃることは素直に聞かなきゃいけないんだなあということを切に感じました。

おかげさまで先日、透析生活 20 年を迎えることができました。これも腎臓を提供くださったご遺族」の好意にほかなりません。ドナーの方のことを話す上では【世界一愛する夫】いえ愛していた夫(過去形)のことを話さなければなりません。

実は、手術をして 1 年後、主人が中学校の同窓会に出席し、涙ながらに「ある人の好意で妻が助かって・・・」と話していたら、ある女性が「それは私の主人の腎臓です!」と立ち上がって、主人はもちろん同窓生一同、こんな奇遇があるものだろうかと信じ難かったそうです。そうなんです。主人の同窓生のご主人が単車で事故に遭われて、亡くなられ、その腎臓を誰かわからない人に提供されたのでした。その腎臓をいただいたのが私だったということが奇遇としか言いようがないのではないでしょうか。でも信じられず手術をしてくださった先生に「ドナーが誰か教えてください」と頼んだのですが、「今までも教えた事でトラブルが起きた事もあるし、教えることはできません。知らないほうがいいですよ」とおっしゃるので「○○さんではないですか?」と聞くと、明らかに先生が動揺しておられました。「何故それを・・・」「実はそうです」間違いはなかったのです。「でも会われないほうがよいですよ」。先生の忠告を聞かず、お礼が言いたいの一身で会ったのでした。

私たち家族が「良かった。良かった」と喜んでいるころに、知らないところでは悲しみに打ちひしがれておられたんだという事を知り、手放しでは喜べないんだという事も知りました。最初はお互いが心の探りあいをしているようなところもありましたが、その後も毎年仏様にお線香を上げさせていただいておりますし、行けない時はご仏前に季節の果物をお送りしたりしてます。今では友達のようなお付き合いをさせていただいており、何より私の健康を喜んでくださいます。腎臓をいただいた、というよりお預かりしている、という風に考えて、ますます大事にしていかないと・・・と思っております。本当に感謝の日々を送っております。そして以前は医学の発展のためにと献体登録をしていたのが、考えても変わって、今では一人でも多くの人のためになればと腎臓以外の臓器提供をしようと意思表示カードを持っています。一人でも多くの人に幸あれと願いつつ。

■広報委員より
大変貴重なお話をありがとうございました。透析患者様には、いろいろ共感される点があったかと思いますが、自分だけだと悲観せず、支えてくれる周りの方と共に苦難を乗り越えて透析生活を送って頂きたいと思います。

(腎友会 会報誌より)

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